Stonehenge(ストーンヘンジ)って何?あっ、あのデカイ石か?うん、知っている、知っている。
しかし、普通のイギリス人に「ストーンヘンジ」といったら、すぐ思い浮かぶのは「有史以前の二重円陣巨環列石柱の群」ではなくストーンヘンジ・フェスティバルなのだ。このフェスティバルはパンクをはじめ、イギリスの市民運動の一つの原点である。
その始まりは15年くらい前にあった。 Phil Russell という元ヒッピーと Crass (The Clash じゃないよ!)というパンク・バンドがウッドストックみたいなフリー・フェスティバルをやろうと言い出した。場所をイギリスの昔から聖なる地と言われたストーンヘンジに決めた。それは政腐が人民から奪い取った土地を取り返そうという意図だった。日にちは夏至の日(いわゆる6月21日)前後。夏至と冬至にストーンヘンジは不思議な現象を見せてくれるからだ。最初のストーンヘンジ・フェスティバルは1974年に行われた。ロックやマリファナを楽しみながら、千人位がオールターナティヴ社会を実現した。
国家の反応は少ししか遅れなかった。同年の8月の Windsor People's Free Festival に警察が突入し、四方八方に暴行を加えた。「HOPE」と書いてあるTシャツを着ていた Phil Russell は殴られながらも笑っていたらしい。ストーンヘンジでも「国の土地から出ていけ!」と起訴された時、皆で自分達の名前を「」(アホという意味)に変えた。法廷で負けたのに、 Phil Russell は Wally Hope というあだ名で全国的にヒーローとなった。
けれども1975年に第2のストーンヘンジを企画していた Wally は逮捕された。警察はタマタマ脱走兵を探していて、タマタマ Wally の泊まっている家に手入れをして、タマタマ関係ない Wally のコート・ポケットを調べることにしたらLSD一粒が出てきたとか。牢獄の制服に発疹するという Wally はパジャマを来ていたら、常識の足りない看守長は自分の服を着ればいいという当然な解決まで至らず、牢獄医者に送った。その方のご立派な診断によると、 Wally の「精神分裂症」が原因であった。流石のお医者様。
その「精神分裂症」を治すにはラーガクティルという薬を(強制的にでも)飲ませばいいとのことだった。この「治療」を受けた Wally は法廷に出る時までに全然物事の分からない知覚麻痺にさせられたのだ。無論、自分の答弁もできなかった。その結果として、精神病院に入れられた。イギリスの法律では、ある人を「狂人」と診断してくれる医者が二人さえいれば、その人を精神病院に送り込むことができる。その後は同じ医者が「治った」と証明しない限り退院する可能性もない。普通の人権は全然与えられていない。最近ヨーロッパ人権法廷の苦情があってイギリス政腐は法律を変えて、入院者が控訴できるようにした。しかし、控訴が審理されるまで6ヶ月も待たなければならない。その6ヶ月の間 Wally と同じ様に無能力にされるだろう。
Crass のメンバーはもちろん心配したが、体制が Wally を潰そうとしていると言ったら「それはパラノイアだよ」と皆に言われた。彼を解放するために合法的な方法も、非合法的な方法も、全部やってみたが無駄だった。会うことも身内にしか許されなくて、 Wally の場合は一人もいなかったから結局独房監禁だった。最終的に Crass のメンバーが家族と見せかけて忍び込んだ。でも Wally は身も心もボロボロだったので、どんなプランがあっても逃げることは不可能だと分かった。これは「病気」の症状ではなく、「治療」のせいだということは後になって明らかになった。「治療」として丸薬を飲んで、その丸薬の副作用を抑えるために注射を受けなければならなかった。 Wally は注射を避けることはできなかったが、丸薬を舌の下に隠しておいて、後で吐いた。ただ、医者は嘘をついていた。注射の方が薬であって、丸薬はその副作用を抑えるものだった。要するにその副作用は Wally の体にますますひどい影響を与えていた。でも医者どもには分からなかったようだ。
その間、第2ストーンヘンジ・フェスティバルが行われた。2週間も、この地球の小さな一角で愛と平和が存在できた。フェスティバルが終わって2日目に Wally が解放された。
ほとんど歩けない状態で、子供でもできるようなことさえできなくなっていた。夜はずっとシクシクと泣いていた。医者につれて行ったら、「慢性運動障害」との診断だった。原因はやっぱりモディケートという注射だった。
1975年9月3日 Phil Russell 、あだ名 Wally Hope は眠り薬を飲みすぎて、自分のへどで窒息死した。彼の名前を覚えていてください。
Wally は狂人ではなかった。我々は現代の世界に従えと教えられ続けてきたが、彼はそんな暗いものを受け入れたくなかった。無政腐主義者として、もっといい世界、平和的な世界を創造することは可能だと思っていた。
検死官裁判所では警察が Wally を皮肉たっぷりの一言でかたづけた。「あいつは自分がイエス・キリストだと思っていたんだよ」。評決は単に「自殺」。それだけ。
Crass は自分達で調べ始めた。調べてみたところでは、決して偶然起こったことではないと分かった。いろいろ資料を集めたら、分厚い本になりそうだった。しかし、調べているうちに、何回も死の脅威があった。警察も何回も来て、黙ってくれるとありがたいがね…とおどした。 Crass は国家に対して無力感と恐怖を感じた。最後に、 Wally の死後一年半たったある春の朝、彼らの神経が尽きてきてしまった。資料を全部焚き火の中に放りこんで、青空に炎が昇っていくのを見送った。 Phil Russell の最期だった。
それでストーンヘンジ・フェスティバルはどうなった?きっかけとなった人がいなければそのまま終わった?まさか!年が経つにつれて、参加者が増える一方だった。1982年までにはもう3万5千人だった。だが警察の圧迫も増える一方だった。それでイギリスに Squatter's Law (占拠者法)という法律がある。その要点はある土地(または家)を12年間続いて利用すれば、その土地を永久に利用する権利が与えられる。1985年のストーンヘンジ・フリー・フェスティバルが行われたら、もう人々が自分で自分の人生を決めることは止められないと警察もよく分かっていた。
あるジャーナリストに言わせると、「私はベトナム戦争にも行きました。しかしベトナムではこれほどひどい蛮行は見ませんでした」。警察は人の家となっているバスをぶっ壊して、その中にいる人(もちろん女、子供、老人も含む)を引っ張りだして、殴ったり蹴ったりした。赤ん坊をバラ線(有刺鉄線)に向けて投げた。こんなのはもはや「闘争」ではなく「戦争」のほかのなにものでもない。
でもそれでも続いている。1988年のフェスティバルには3千人の警察がヘリコプターなどを利用して、何週間もストーンヘンジに行きそうな人を監視したり、妨害したり、イヤガラセをしていた。わざと暴力を起こすような人も手先として配置した。今年も警察の予算は80万ポンド(約2億円)位だった。ストーンヘンジから8キロ以内で二人以上で歩いている人は「暴動予防法」によって逮捕することも許可された。
それでも続いている。人数は減ったようにみえるかも知れないが、夏至の日の直前まで10万人以上が近くのフェスティバルで警察の動きを待っている。殴られたくない、逮捕されたくないから行かないというのは無理もない。なぜ続くのだろうか?
答えはいうまでもないはずだ。 Wally を偲んでいるだけではない。 Stonehenge に行くことによって、国家に「もうたくさんだ。我々の人生を好きままに操るのをやめろ!自由がなければ、人並みに生きてもしようがない」というメッセージをはっきり伝えるのだ。
日本ではどうですか?
城雲図・勉のホームページ (http://www.ozaru.net)