去年八ヶ岳で「いのちの祭り」が行われた。結構楽しいイベントだった。しかし、ヨーロッパのフェスティバルと比較したら、物足りないと感じざるを得ない部分がたくさんあった。向こうのフェスティバルの情報はマスメディアに載らないから、日本には入ってこないし、比較する人もあまりいない。でも日本にヨーロッパのようなフェスティバルがないというのはとても残念だから、比較する価値はあると思う。
まず違うのは規模と頻繁さだろう。いのちの祭りは一週間位かかって、参加した人数は合計7千人前後だそうだ。ヨーロッパのフェスティバルで7千人のスタッフが手伝っても不思議はない。3日間で10万人以上の参加者というのも極当然な規模だ。そして、1988年の日本にオールターナティヴ・フェスティバルは一つしかなかった。イギリス、ドイツデンマークなど、別個に見ても夏の間は毎日必ずどこかでフェスティバルをやっている。夏をずっとフェスティバルからフェスティバルへと歩き廻る人もたくさんいる。それは毎年変わらない。だが、日本のフェスティバルは去年のいのちの祭りで一つの流行みたいに終わってしまったという気がしないでもない。働き過ぎといわれる日本人が仕事にとらわれて「フェスティバルなんかで遊んでいる暇はない。」と感じるといえるかもしれない。それに見知らぬ人同士で楽しむ術を知らないということも考えると、なぜ日本で今までフェスティバルというものは根付かなかったかが分かってくる気がする。
雰囲気もやっぱり全然違う。いのちの祭りで一番驚いたのは、ヒッピーの格好をしている人が「毎日シャワーだけで気持ち悪いよね。風呂入りたいなぁ。」と言ったりすることだった。ファッションとしてその格好をやっていたとしても、それは空しいだけではなく、やっぱり失礼にも当たる ー 元々意味のある、あるライフスタイル(人生哲学)を現しているものが表面的な流行になりさがったことには腹が立つ。向こうのヒッピーやパンクは風呂に入ったり洗濯したり、そんな面倒臭いことを控えて、何週間、何ヶ月もシャワーも浴びない。その方が気持ちいいというか、心が解放される。西洋と東洋の清潔感が違うという前提を認めても、やっぱり不潔であることの気持ちよさを日本人にも味わってもらいたい。フェスティバルで真っ裸な人をたくさん見かけるのは似ている。だがいのちの祭りにいた人達は一体何の為に来ているだろうと思った。普通の生活、いつも気にしなければならないことを忘れて、自然に戻って、楽しむ為に来たのではなければ、一体どういう意図だろうと思った。日本人は楽しむことを知らないとよく言われているが、まさにその通りだと思った。ストレスが大きな問題とされているが、こういう所でさえ気軽にリラックスできなければ、その問題が解消されないのも無理もないと思った。
なれていないというのはもちろん分かる。パーティーの習慣もなくて、ヨーロッパ風の広場もないからフェスティバルをやろうという計画もそもそも難しいと感じていた。でもだからこそやる意味があると思う。というのは、日本で本当にオルターナティブ文化を作り上げていきたいと思ったら、やっぱり誰かがそういったきっかけを与えなければならないからだ。
いのちの祭りそのものはとてもいいことだったと思う。ヨーロッパよりもヨガや自然食、太極拳、ソフト・エネルギーなどのセミナーが豊富にあった。舞台が一つしかなかったにしても、いいバンドがたくさん演奏してくれた。美味しい料理もいろいろ出された。ヨーロッパのフェスティバルなら20件に一つしか肉食を出さないのに比べて、いのちの祭りでは菜食主義者の食べられるものが少なかったのは残念だったけれども、それも今後変わってくるだろう。いい人にもたくさん出会えた。しかし、その人達は大体マジメ過ぎたのだ。フェスティバルに来ているという感じではなく、まるで講習会みたいだった。
もう一つ批判したいところがある。それは日本の市民運動がバラバラだということにもつながる。いのちの祭りでは原発に目を向けている人がたくさんいた。自然食や農薬、食品添加物、エコロジー、瞑想なども感心が高かった。だけど天皇制や労働運動、死刑廃止、動物実験、人権、警察などの問題にはあまり触れられなかった。市民運動のまとまったヨーロッパでは、フェスティバルのみならずどんなイベントでも、現代社会のアラユル問題に挑戦している人がたくさん集まる。フェスティバルで並んでいるテントを見てみると、自然食の本や動物実験反対のポスター、「南アフリカの製品を買うな!」のTシャツなどが揃っていて、どれも売れている。それでフェスティバルで一番嬉しいことは「私だけではない。ここに集まってきている何万人の人も同じ様によりいい社会を作っていこうとしている。皆それぞれ違っていても、友達だ。大きな家族みたいなものだ。」と実感できることなのだ。
日本でもそういうのが必要になってきているのではないか?
フェスティバルは日本的ではない、日本人に向かないという人もいる。日本人に日本の文化を忘れさせて、個人主義を押し付けることがアメリカ帝国主義だと批判される。確かにそうかも知れない。でも一方、X国の人に「あたなはX人だから」といって、X文化を押し付けることもよくないだろう?「日本人」はフェスティバルに向いていないというのも、「日本人」はフェスティバルを必要としているというのも、どれもおかしいと思う。要するに、「日本人」をすべて同一視すること自体が問題。あらゆる日本人が皆フェスティバルにきてほしいと思わない。向こうでも、サラリーマン、ヤッピー、上流階級などにきてほしくないと同じ様に。きたい人だけくればいい。オルターナティブという言葉も「選択できるようにもう一つのありかた」という意味だ。日本でもそのオルターナティブを求めている人がいると思う。そして今の日本の管理社会の中にはオルターナティブがないに等しい。だから西洋個人主義を日本に強制的に導入するのではなく、自由を求めている人達がそれを実現できる場を与える意味でフェスティバルをやりたい。
やるとしたら、いつ・どこでやるのかが第一の問題だろう。日本は狭いし山が多いから一万人だけでも収納できる土地を捜すのは大変だ。向こうではたいてい公共地でやるか、牧草や休閑地を使わしてもらう。農家でもオルターナティブな人がいるからそう難しくはない。入場料をとるフェスティバルもあるから、利益のために土地を貸してくれる金儲け農家も少なくない。自動車(バス、トラック、ヒッチハイク含む)を利用する人がほとんどだから、結構な面積が必要となる。水がなくなるのが一番怖いことだから、その供給も前以って考えなければならない。入場料はない方がいい(フリー・フェスティバル)が、日本ではスポンサーが付いていなければ難しい位だから、三つの方法があると思う。商業主義や消費主義というのはフェスティバルの精神に違反しているから、「お金は出しますが、宣伝しなくてもいいです。」といってくれるようなスポンサーを捜す。また、決まった入場料はとらないが、「一人X千・万円かかっているから、カンパしてください。あまった分は金のない人の入場料に回す。」という看板を入り口に張って、参加者の良心と誠意を信じる。三つ目は、入場料をとるが、金のない人がきたら、見逃す(向こうではどうせ裏から忍び込んでくる))。ところで、入場料をとるフェスティバルでは紙の券は使わない。なくしたり、ほかの人に渡したりできるからだ。その代わりに、切らなければとれないリスト・バンド(腕時計みたいな形)を入口で付ける。これも毎年同じだったら、ごまかす人が出てくるだろう。従って毎年その模様を変える。そのバンドとらないで、毎年毎年集める人もいる。腕を見たら「この人はベテランだ。14年間も来ている。」などと分かる。
フェスティバルに安い売店がたくさんあるし、ビール位は皆自分で持ってくるのが普通。だがそれでもお金が全然なくなる人がたくさんいる。クリシュナ教の方はよく無料で菜食料理を食べさしてくれるから、それはクリシュナ教に限らず日本でも可能だろう。病気のことを考えたら、何かの形で救急テントも必要だ。売店を開く人と同じ様に、自然治療法をやってくれる人もいつもフェスティバルにきている。あとは何かを教えたい人(例えば向こうだったら、伝統的な芸、無政府主義、バスの修理など様々ある)がくればくるほどいいと思う。
ライブもフェスティバルの大切な一部だけれども、バンドとして誰が出るのかも問題になるだろう。ライブ・エイドみたいに「金儲けのためにやっているとしても、スターやアイドルに出てもらった方がイベントの人気を上げるからポリシーをとりあえず聞かないでいよう。」とするか。または「真面目な(運動関係の)バンドでないとフェスティバル自体と矛盾するから、人気がなくてもそういう人にしぼろう。」でいくか。個人的な意見だけれども日本でフェスティバルをやるという意味は一つの刺激を与えることだと思うから、なるべく多くの人に与えたい。だから人気がとても重視されなければなりたたない。従って、アイドルでも沢山のバンドに声を掛けるがギャラは出さないという案がある。
さて、興味のある人よ、今度はやってくれる人や団体はいない。自分達でやるしかないのだ。一緒にやりませんか?
城雲図・勉のホームページ (http://www.ozaru.net)